愛の言葉に返事はいらない

楽しい予感のする方へ

舞台「青の炎」感想

文学作品×推しは行かない理由がないです。

 

 というわけでくにおくん舞台振りに新宿で盛大に迷子になりながら、スペース・ゼロへ行ってきました。

チケット発売の頃は一日一公演の日が多くて不思議なスケジュールだな、と思ってたのですが、観て納得しました。

推しがまた俺全編に渡って捌けないかも、と話していたので*1推しの役柄踏まえてもどういう作りになってるんだろう、と思ってましたが一度も捌けないのは推し一人じゃなく出演者全員でした。

 役として板の上に立っていない時も、時に主人公の心情を語り、主人公が感じている情景を読み上げ、主人公の中で燃え爆ぜる炎となりながらも、基本的には舞台の周囲に控えながらじっと主人公(彼だけは控える側に回らない)を見据え続けている。

 この舞台、3面(張り出し)舞台になっているので中心となるステージをぐるっと客席が囲っているのですが、その上で客席通路も使用します。

ただし中心部分は使わず通路の上手端、下手端(会場入り口側)でメインとなるお芝居が行われるので、サイド席であろうとセンターブロックであろうと視線を動かさざるを得ない。

あ、これ私たち客席も今目の前で繰り広げられている物語からは一旦退場し主人公を見つめる視線となっている出演者と同じ、四方八方から主人公を刺す視線の一つになっているのか、と。

 殺人者の心を締め付けるのが単なる事実、人を殺したという記憶であるならば主人公の行った行為、それまでに積み上げたもの、一つ何かがかけ違っていたならばこの選択に至らなかったのではないかと思わされる彼の日常風景、それをまざまざと目の当たりにしてきている。

彼が行う完全犯罪の全貌、原作では大幅に文量を割いて語られる殺害手段やその準備を行いながらの彼の葛藤は描かれない。

代わりに、不安定な積み木を高く高く積み上げるような、後戻りのできないパズルのピースをはめ込んでいくような緊張感が、主人公が薄氷の上を渡るような、細い糸の上を歩くような危うさの共有となる。

 舞台はお客さんがいて完成する、舞台上と客席との共犯関係なんて言われるけれども、息を飲み身じろぎすらためらうあの空間で、私たちは確かに主人公の共犯者であり、同時に見ているしかできない傍観者だ。

 

 

 推しがこの作品を紹介する時に、確か「思考する」って表現があったように記憶してます。

実行する行為ゆえに感情移入や共感をしにくい主人公ではあるんだけれど、彼を見つめ視線で刺し続けることで、全編に渡って彼の視点で物語が進む結果彼が知る情報とタイミングを私たちも共有する事で、もしあそこがああだったら、もっと早く自分を思い続ける人たちにも目を向けられていたら、とか彼のことを思わずにはいられないから「思考する」なんだなと観劇後に感想を噛み締めて腑に落ちてます。

はまってはいけないピースが全部はまってしまったから、どれか一つでも欠けていたら、完全犯罪がボロボロと崩れ出す、空気が抜けていくようなあの音がもっと早く聞こえていたらと願わずにはいられない。

 

 当日引換券・当日券がある公演もありますし、3日昼夜公演にて配信があります。

 

www.confetti-web.com

www.confetti-web.com

舞台を観てこう感じた事が映像ではどう映るのか、どう感じるのか楽しみに開演を待っています。

 

 

*1:Oh My Diner1作目本編で全く捌けず舞台の上に立ち続けたので2回目